29歳でガンになって神様に子宮返したった!

子宮失っても楽しく生きようゼ

【ピュアな彼】入院準備で大泣きの巻

 

前回の記事でサラッと入院準備について触れましたが、例の彼も入院準備を手伝ってくれていました。

 

ちなみに彼とは毎日連絡を取り合う感じの関係で、何度も家に来てくれていて、不安な時期の私を支えてくれたと言っても過言ではないです。(しかし付き合ってはないw)

 

入院準備をしている中で

几帳面でよく気がつく彼は

 

『あれは持って行った方がいいんじゃない?』

 

『忘れ物ないようにちゃんと書いとかないと!』

 

と、雑で忘れっぽい私のサポートをしてくれていました。(めちゃくちゃ助かったw)

 

家に無いものがあったとき、彼が代わりに買い物に行ってくれるというので、必要なものをメモして彼に渡した。

 

 

彼が買い物に出たその間に、、、、

 

私は彼に手紙を書いた。

 

 

出会って1ヶ月も経ってない私に、なんの損得勘定もなく、よこしまな気持ちもなく、なぜだかずっと支えてくれた彼に感謝の気持ちを伝えたかった。

 

何を書いたか正直覚えてないけれど、治療も手術も頑張って絶対に元気になる!と宣言した気がする。

 

 

彼が買い物から帰ったタイミングで、手紙を渡した。

 

そしたら彼がいきなり泣きだして、、、💦

 

 

えぇぇぇぇぇえ!?!?Σ(゚ロ゚;)

 

なんで!どした!ぇぇ!?Σ(゚ロ゚;)wwwwwww

 

大人の男がしっかり泣き出して戸惑うアラサーw

 

よくよく話を聞くと、

 

こんなに元気な子が、なんで癌になるんだ。癌なんて信じられない。

 

と色々溢れ出して泣いちゃったみたいやけど、ピュアすぎんか?おい。

 

 

私のために泣いてくれる人が家族以外でいるんだ。と、、私は呆気にとられてしまった。

 

 

これは入院の数日前の出来事。

彼と会えるのは、また退院後。

 

私は、このとき確かに

 

絶対元気になってこの人とデートしたい!と思って、それをひとつの目標にした。

 

いつの間にか私の目にも涙が浮かんだ。

 

悲しい涙でも、辛い涙でもなんでもなく

 

『生きたい』

 

と、願って出た涙だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

【入院準備】人生はじめての入院


誕生日を過ぎた辺りから、ようやく入院準備を始めた私。入院が7月1日~7月下旬までの予定なので、ちょっと長め。


なにせ、30年生きてきてはじめての入院ですからねぇ!ww


事前にもらった入院の手引きには、ざっくり必要なものが書かれてあったけど、色々な方の闘病ブログを拝見していたので「あると便利なもの」なども知っていた。



たとえば、

S字フックとか

延長コードとか。


ベッドの上で過ごすことが多い分、なにかと細かいストレスが発生するのは想定済み。



病院だろうがなんだろうが、いかに快適にすごせるかが重要なので、経験者が言うことは間違いない!



しかし、準備を進めるも日頃から忘れ物やうっかりが多い私は段取りがかなり悪いwwwww


両親に必要なものをLINEで送ってくれと言われていたことも忘れて、連絡が遅い!とプチ喧嘩になったりww



もう、こんな時に怒るなよ〜
こっちは今から手術控えてんだぜェ〜?



が、この時の私の決めゼリフでしたね。我ながら腹立つなwwwww


準備も進む中で、例の彼も色々手伝ってくれたんだけど、ちょっとしたハプニングが起きてしまった。

~つづく~


【誕生日】30歳になった私


2021年6月23日

私は30歳になった。


思い描いていた人生とは全く違うルートを生きているような気がします(笑)


人生思い通りにいくとは考えていないけれど、まさか自分が癌になるとは1ミリも考えたことなどなかっただけに、忘れられない誕生日にもなった。


今から30年前の1991年6月23日、両親の3人目の子どもとして生まれた。


お腹の中で騒ぎまくったせいか、へその緒で首を締めまくって出てきた私。


産声も上げず、紫色した顔で登場(笑)


母親の手に渡ることなく、しばらく先生方に様子を見ていただいていたようです。 


小さな頃から病弱というか、弱いところが多くてよく体調を崩す子どもでした。


でも、入院手術が必要な病気にはなったことがないし、、、体力がないことだけが長年の悩みだったぐらいです(笑)


癌になったことは、人生どうなるか分からないを痛感したひとつの出来事でしたね。


父親からはずっとずっと「まさかの坂はある」と用心深く生きるように吹き込まれて育ちましたが、今まさにその坂を転げ落ちた訳ですよ。



まさか私が?




なぜ私が?




30歳という年齢で、何かに区切りをつけるように大病にかかったのは、私自身の生き方を見直すべきイベントだったのかもしれない。


神様がいるのかいないのかはよく分からないけれど、私は確かにこの病気のおかげで色々考させられた。


生き方、考え方、人間関係、将来のこと。


そして入院手術を控えた私に、家族や親友やずっと良くしてくれていた人から続々とお守りが届いた。



 なにか大変なことがあると、人は何かにすがりたいし、僅かな望みをかけて祈りたくなる。


そして、想いってものは目に見えないから、こうしてお守りや御札に姿を変えているんだろうね。


これは誰にも分からないことだから、信じてくれないし笑われるかもしれないけど。もらったお守りは握ってみるとカイロを持っているようにジワジワ熱を感じた。


こうして祈ってくれる人が居て本当にありがたい。私のために、わざわざ神社に出向き祈りを捧げてくれる人がいる、その事実だけで十分なんです。


実際、いま何かにすがりたいのは、周りの人ではなく私の方だった。


30歳の幕開けは不安の塊。


私はどうなっていくんだろう。



~つづく~



【恐怖】全身麻酔の謎


両親同伴の説明の日に、主治医から病状や手術についての話があった後。

そのまま、入院の手続きをしたり、麻酔科など他の科にも向かい担当の方から話を聞いた。


私が1番衝撃だったのが『麻酔科』での話(笑)


今回私は、子宮広汎全摘術という手術を受けるに当たり、手術の内容的にも全身麻酔は必須だそう。

そのため、自分と両親セットで麻酔科での説明と同意書へのサインが必要だった。

麻酔科の診察室に入ると、死ぬほどハキハキ元気のいい女医さんが迎えてくれた。


『こんにちは!!麻酔は初めて?!』

とてつもなくフランクだwwwww

とにかく強烈なインパクトだった。


先生は、冊子を取り出して麻酔の説明を始めた。

今回の手術では『全身麻酔』と『硬膜外麻酔』という2種類の麻酔を使用するとのこと。


硬膜外麻酔というのは、局所麻酔の1つで鎮痛効果が非常に高い麻酔だそう。
背中の脊髄近くにある「硬膜」という空間に管をぶっ刺して、持続的に麻酔薬を流すイメージ。

う、、。うん。(笑)
痛そうなイメージしかないんだが?(笑)


「痛いですよね?それ、絶対(怯え)」

痛みに弱く、元々注射など針系が苦手な私は即座に聞いた。なんとなく、心構えだけはしときたくてwwwww

『あぁ、ちょっとチクーッとするかな?アッハハハハハハハハハ!大丈夫大丈夫!そんな怖がらんで!』

先生、大爆笑wwwwwwwwww


この硬膜外麻酔は、手術するときに刺してから術後しばらくもお腹を切ったところの痛み止めとして働いてくれるらしく、3日間ぐらいは刺しっぱなしだそう。


そして気になる全身麻酔の話。


ドラマとかでよく酸素マスクみたいなのをして、すぐに落ちる。ような場面を想像していたけど、今回は『点滴薬』での全身麻酔

『あなたぐらいの大人なら、10秒数えれないうちにそのまま一旦眠ってもらいます!』


麻酔が体入り始めて10秒もたないってどうなってるんだろうwwwww
先生はそのまま説明を続ける。


『んで、眠ってしばらくしたら呼吸が完全に止まります!そしたら、私たちが気管までチューブを通して人工呼吸で患者さんに酸素をね?送りますからね!なので、死にませんから!』

『で、ずーーーっと手術が終わるまで私たち麻酔科医ってのは、あなたの血圧とか心拍数とか、人工呼吸の状態とかを見てるからね。手術が終わりそうになったら、麻酔薬を調整して目覚めるようにするからね!ちゃんと目覚めるから大丈夫!』


先生は、すごい頼りがいのある自信たっぷりな感じで不安にならないよう説明をしてくれた。

けど、全身麻酔のメカニズムって未だに全部ちゃんと分かってないんだってwwwww

それでも、現代の医療でずっと活躍してるのすげぇよな。麻酔科医の人もすごい。



とにかく、手術中は麻酔のおかげで痛くも痒くもなく寝てるだけだから大丈夫と何度も言われた。


この説明を聞いて麻酔に興味を持ったので、あとあと『麻酔科医ハナ』という漫画を読んだけど、めっちゃ面白かった!



全身麻酔を受けた身としては、麻酔科医の先生がこんなことしてるんや~とか、麻酔かかってる状態について知れたし話も面白かったので興味ある人は読んでみてほしい。


私もこんな大手術するまで、麻酔のことなんかイメージと想像でしか分からなかったけど、ほんとに不思議(笑)

なんで呼吸止まるのに心臓止まらないの?とか(笑)



なにはともあれ、

麻酔から目が覚めなかったらどうしよう!

とか

怖いなぁ〜

なんて考えはなくなり、同意書にサイン。
先生の明るさもよかったと思う。


しかし、


あの痛みを和らげるための『硬膜外麻酔』とやら麻酔が、目覚めてからの私を相当苦しめることになるとは、、、

この時は誰も予想していなかったwwwww


~つづく~

【両親同伴】主治医からの最終説明

ステージの診断、治療方針が固まったところで入院や手術などの説明を受けた。


そして、何十枚とある手術の同意書を持ち帰り1枚1枚サインをした。



検査、ガン告知、診断まで一貫してずっと1人で病院に通っていた私。


思いのほか心細さはなく、家族になるべく心配をかけたくないので連絡も必要最低限にしていた。



主治医から家族同伴で病状と手術の説明、身元の保証人となってもらうため6月18日に両親を連れてきてくださいと言われ、両親に連絡をした。



久しぶりに会うのに、こんな形で会うことになるなんて誰も想像してなかったので、両親のことが心配だった。


私の親はとても心配性だからこそ、ショックだったろうなーと思うし、心配かける羽目になって申し訳ない気持ちでいっぱい。



当日は、先生のスケジュールに合わせたためかなり朝早くに病院に向かうことになった。



両親と合流して、病院へ。


いつも通りの明るい父と母。


親として、私を目の前に気丈に振舞っていたようにも見えた。


前日にお墓参りに行ってご先祖さまにお願いしてきたとか、


お守り買っただのなんだの、


出来ることをしてきたけど、全くの無力だと。無力だけど祈るしかできないんだと。


父親が運転しながら呟いていて、胸が痛かった。



病院について、すぐに先生の元へ通された。



先生は私に説明したように、紙とペンでゆっくり手術内容や病状を説明した。


父親がたくさん質問していたけど、貧血っぽくフラフラするせいで座っているのが辛くて何を聞いていたか覚えていない。



最後に、手術当日の流れを説明された。


コロナ禍ともあり、当日も家族すら同伴が禁止されていた。


しかし、今回は全身麻酔を使用する大手術になるため、意識が戻ったことを親族が確認する必要があった。



手術に入る前(私ひとり)

↓↓↓

手術中(私ひとり)

↓↓↓

手術が終わる頃に誰かひとり来てください


という案内だった。



結局ひとりかよ(笑)(笑)


なんなんだ、このコロナ禍のせいでずっとひとりじゃねーかよ(笑)って思ってました。



入院のスケジュールや、全身麻酔の説明など全ての説明が終わる頃には、夕方になろうとしていた。



心配そうな両親をなんとか安心させようと、私はひとりで大丈夫やけん!って何回言ったことか(笑)


両親も仕事や生活があるので、私のことでこれ以上迷惑かけられないので帰ってもらった。


次に会うのは、手術が終わり意識が戻ったとき。



またね!当日よろしくぅ〜☆(笑)


って笑いながら両親を見送った。

【違和感】乗り越えるという言葉

ガンが分かったとき、Instagramのストーリーにも自分がガンになったと投稿した。


もちろん、YouTubeTikTokなど自分が使っていたSNS全てで自分の状況を公表した。


理由はただひとつ。


このガンは早期発見できる、さらにワクチンで予防ができる、でもセックスしたことある女性なら誰でも発症する可能性があるから。


それを知って欲しかった。



Instagramは、地元の友達や知り合いなどと繋がっていたツールだったけど、ためらいなくガンであることを告白した。


でも、コレがよくなかった。


狭い狭い田舎のコミュニティの中で、私がガンであることはすぐに広まった。


心配の声や、頑張ってという声、よからぬ噂話に、有りもしない作り話、そこまで仲良くないのに知ったように語るやつ、


もう、てんやわんや(笑)



地元の交友関係が一気に疲れた出来事の引き金になった。




この時期に私は、自分がガンになって初めて人を恨んだ。


誰も悪くないのに、、幸せそうな周りの人たちが死ぬほど気持ち悪く見えた。


InstagramにUPされるのは、


結婚したよ。

妊娠したよ。

子ども可愛い。


みたいな。


赤ちゃんや、子どもの写真ばかり。




なんで、。

なんで私はこんなにツラいのに、みんな幸せそうなんだろう。


人の子どもなんか全然可愛くない。


私子ども産めなくなったのに、


なんで?



って。


ねじれて、悲観して、恨んで、

マイナスのエネルギーがとても強かった。




自分の心がどんどん歪んだ。

バカみたいな思考に陥った。

あんたらに何が分かるんだと。   



こんな自分も嫌だった。




でも、あの時の荒んだ自分には、幸せそうな周りの人たちからの言葉なんてなにも響かなかった。





私を心配して、色んな声かけをしてくれたんだけど、歪みに歪んだ当時の私はそんな言葉もありがたく受け止められなかった。


むしろ、ひねくれてとらえてしまった。





この時1番嫌だった言葉は【乗り越える】という言葉。


『まるるだったら乗り越えれるよ!』


『頑張って乗り越えて!』




……は?





本来『乗り越える』という言葉は強く美しい。


なのに、当時の私はこの言葉が1番イラついた。


もちろん、『乗り越えて』と言った人は私をイラつかせる気は毛頭ない。励ましたかったんだと思う。


その想いをちゃんと受け止められなくて申し訳なく思う。




けど、乗り越えた先に何があるの?




たとえガンという病気を乗り越えても


私の子宮は一生元に戻らない。



ガンを患った事実も消えない。




私は突きつけられた病気と、その先の【空白】にただ怯えていたんだと思う。



このままでは、自分が壊れる。


どんどん汚い心になっていく。



そう思って、地元の人たちとの関わりをほぼ全て断った。何十年前からの友達、よく関わった人、全て。


Instagramも消した。

頻繁にUPされる、小さな子どもの写真を見るのが単純に辛かった。


電話帳の連絡先も消した。

死んだと思って、私を忘れて欲しかった。



これからの人生は、本当に寄り添ってくれる人とだけ生きて行きたかった。



本当に私を心配している人なら、指先動かしてLINEひとつで終わらせたりしない。



本当に私を思ってくれている人なら、行動してくれている。



無意味な人間関係に終止符を打ち、大切にしたい人、大切にしてくれる人がハッキリ分かった。



でも、これでよかったんだ。



【乗り越える】という言葉は、共に寄り添って歩んで行く覚悟がない限りはあまり響かないんだと実感した。


~つづく~

【ステージ確定】治療方針と今後について

 

2011年6月14日

 

乳腺外科騒動が終わったあと、本題に入った。

 

そうそう、今日は本当はガンの進行と治療方針についての話を聞きに来たんだった(笑)

 

先週受けた、内診・生検・コルポスコープ・細胞診・PET CT検査・MRIこれら全ての検査結果から現在のガンのステージと治療方針が決まる。

 

現状、私の場合は

 

子宮頸癌1BⅡ期。

他転移はなし。

 

ということでした。

 

ガンのステージが5まであるのは、どのガンでもよく見聞きしていた。

 

ステージが上がるごとに助かる見込みがないというイメージだった中、自分は1BⅡ期ってことは1だよね?じゃぁ大丈夫じゃね??って甘い考えだったんですよね、治療方針聞くまでは。

 

 

なーんだ、やっぱり大したことないやん!

 

 

ってあのとき一瞬でも頭に浮かんだ自分がバカすぎる。

 

 

先生は、丁寧に紙にイラストを書きながら私に治療方針を説明してくれた。

 

まず、子宮は全摘するのがこのステージの標準治療だと言った。

 

 

・・・お?子宮、全摘?

 

え、1Bって軽いんじゃないの?

 

と思いながら話を聞いた。

 

 

子宮広汎全摘術という手術で、子宮丸ごとと、腟の一部と、子宮周りの組織や骨盤内のリンパを取りますよと言う説明をしてくれた。

 

 

手術での治療は3通りあって、

 

・子宮頸部円錐切除術
子宮頸部を『円錐型』に切り取る


・単純子宮全摘術
子宮単体を摘出


・広汎子宮全摘術
子宮本体と、膣の一部、周囲の組織、骨盤壁の近くまで広く切除して骨盤内のリンパ節も摘出

 

この3つがあるようです。
ステージによって標準治療内容が変わり、私の場合は子宮広汎全摘術が選択された。

 


この時はあまりピンとこなかったが、子宮を失うということは当然将来妊娠出産する機会が完全になくなるという説明も受けた。


妊孕性(にんようせい)と言うらしい。


丁度私は、29歳。これまで未婚の未出産であった。
妊孕性の可能性が完全になくなると説明するときは、さすがの先生も、少し申し訳なさそうに話しているように思えた。


しかし。それらを失ってでも、あなたの命を最優先してこの治療を提案します。とハッキリ言われた。

 


その言葉に私の気持ちも定まった。


セカンドオピニオンも勧められたが、まっすぐに私の命を救うことを最優先に考えた先生に全てを託そうと決め、手術に同意した。


私はまだ若かったので、卵巣については手術で実物を見て取るか取らないかを決めることに。

 


もう、ここまできたら怖さは消えていた。


ガンと分かるまでの方が精神衛生上良くなかっだと思う(笑)


次は両親同伴で手術説明をしますということで、この日は終わった。

 

 

 


この時期は毎週のように病院に行った。


そんな記憶しかない2021年6月。


~つづく~